2日目 タシケント市内観光

ぐっすり眠って、ゆっくり起きた。しあわせだなあ。今日は9時半からタシケント市内観光をして、夕方の飛行機でヒワ(ヒヴァ)まで移動する予定になっている。

タシケントというのは「石の町」という意味で、古代から栄えていただけでなく、今でも中央アジアの中心なんだそうだ。なんでも、ちょっと前までは中央アジアの各都市を訪れる場合は、全てタシケント経由の飛行機だったらしい。昨日の夜、街が暗いなあ、と思ったけど、どうしてどうして中央アジアでは最大の大都市で、中央アジアで唯一の地下鉄もあるとか。

もっとも、1966年に大地震があり、その後、新しい街として生まれ変わったので、古いものはあんまり残っていないらしい。そのせいというわけでもないんだろうけど、多くのツアーではタシケント市内はあんまり観光しないらしく、何回もウズベキスタンを訪れている添乗員さんもきちんとした市内観光は初めて、とのことだった。




独立広場

最初に訪れたのは独立広場。
ウズベキスタンはソ連末期の1991年9月1日に独立をしており、それを記念した広場だ。

なんでも中央アジアの5カ国(ウズベキスタン・カザフスタン・キルギス・トゥルクメニスタン・タジキスタン)は、僅か1週間の間にばたばたと独立を果たしたらしい。ウズベキスタンは2番目くらいだったとか。

入口にはソ連時代の広場の写真が残っていて、それによると右の写真の球体が乗った赤っぽい塔の上に、かっては、球体の代わりにでっかいレーニン像が置かれていたらしい。

当時は、ここは「赤の広場」と呼ばれていたそうな。

今の球体は地球儀を現わしていて、ウズベキスタンの地図が描かれている。下には愛情を表わす母子像がある。


観光中に、結婚式の若いカップルに会った。今では、ここは結婚の報告に訪れる場になっているらしい。

なんか、がら〜〜んとしてるんだけど、独立記念日(9月1日)が近くなると、かなり賑やかになるんだって。
バスに乗って旧市街へ移動する。車が少ないなあ・・・それに、日本車を全然見ない。ここまで日本車を見ない国って初めてじゃないだろうか。



カファリ・シャーシ廟
10分ほどでカファリ・シャーシ廟に到着。
左の写真は、廟を横から見たところ。
銀色の鱗のようなドームが輝いております。

カファリ・シャーシという人は10世紀の神学者・詩人だった人で、16世紀になって廟が作られたとのこと。

正面に回ると、入口に小さなゲートが作られていて、廟に行くためには自然と頭を下げなくてはならないようになっている。

入口のドアは木でできていて、非常に細かい模様が彫られている。木が多用されているというのがウズベキスタン風ということらしい。
この廟の周囲は昔はたくさんのお墓があったらしい。なんでも、偉い人・聖人のお墓のそばにお墓を作ると、その人のご加護で天国に行きやすくなる・・・というか、そういう思想があるんだって。だけど、ソ連時代に整理されちゃったらしくて、今では、周囲はがら〜〜んとしている。

でも、廟のとなりにはソ連時代も活動していたというイスラムの学校があって、いまでも授業が行われている。時間割が貼ってあったから子供向けなのかと思ったけど、調べたら神学校を卒業した人を対象とする高等教育機関らしい。庭の緑がきれいだった。



ここからすぐのところに、バラク・ハーン・メドレッセとジュマ・モスク(金曜モスク)があるということで、歩いて移動。周囲は住宅街で、なんか静かだ。
歩き出して数分して、お、スイカ売りのおじさんが店を開いてると思ったら、おじさんの後ろの建物がもうバラク・ハーン・メドレッセとジュマ・モスクだった。2つは向かい合う形になってる。




バラク・ハーン・メドレッセ

まずは、バラク・ハーン・メドレッセ。

タイル貼りが美しいけれど、気になったのは、黄土色の使い方。

イスラム建築って、基本的な作りはどこの国でも同じようなんだけど、結構、色使いとかで国ごとの個性があると思う。この黄土色の使い方は個性的だと思うんだけど、これがウズベキスタン風という奴なんだろうか。

このメドレッセは16世紀に建てられたとのことで、あんまり大きくはないんだけど、ソ連時代から中央アジアのイスラムの本庁だというから偉いところのようです。

中庭はバラ園になっている。

イスラムの人は、ほんとうにバラが好きだなあ。



ジュマ・モスク
ジュマ・モスクは残念ながら改築中。だけど、奥にちょっと変わった形の建物があって、ここがすごかった。図書館ということだけど、一歩はいると、内部は淡いパステルカラーの水色(右下)で、うわあ、少女趣味〜と思ったんだけど、上を見ると天井は豪華絢爛(左下)、まるで日光東照宮かというような不思議な建物。凄いキレイだ。しかし、木材を使いまくってるな。木材を使いまくっているっていうことは、オアシスでは凄い贅沢なことのはず・・・。


思わず写真を撮ったところで、管理人さんから「お客さ〜ン。写真代」と言われた(と思われる)。実は、ウズベキスタンの主な観光地では、ほとんど写真代を取られる。この写真代、変動が激しいとのことだけど、私が行った時は大体、1箇所で2000スム(約200円)くらいが多かった。ここがウズベキスタンで最初に写真代を払う場所となった。

もっとも、ここが写真代を取るのは、ある意味、当然かもしれない。
建物内部がきれいなのはもちろんだけど、ここにはなんと世界最古のコーランがあるのである。

なんでも世界最古のコーランは世界に4冊あり、ここのものはティムールがダマスカスから持ち帰ったもの。他の3冊はトルコ・エジプト・サウジアラビアにあるとのこと。

このコーランは奥の部屋のガラスの向こうで公開されている。コーランのために、この部屋にはクーラーもあって、大事に大事に保管・公開されている。

ガラスごしに見る世界最古のコーランは、大きな羊皮紙に大きな字が手書きで書かれていた。

ソ連邦時代はソ連の学者のもとにあったけれど、独立後返還されたんだそうだ。ウズベキスタンの人たちは、とても、このコーランを大事にしていて、誇りに思っている。なんてったって世界に4つだからね。




チョルス・バザール

おつぎはチョルス・バザール。チョルスというのは4つの道に囲まれた場所、という意味らしい。タシケントの道ががらがらなのは前にも書いたとおりなんだけど、いきなり、凄い数の車が目に付きだしたので、!?!と思ったらバザールの入口だった。タシケント中の車がみんなここに来てるんじゃないか、と思うくらいの車が停まってる。でっかいドーム型の屋根が見える、あれがバザールか?
バスを降りて、入口で「はぐれたら、あのチョルス・ホテル前で待っててください」と、はるかかなたに見える建物を指差される。なんと、はるかかなたまでずっとバザールらしい。どうやら、でっかい巨大ドームを中心に凄い数のお店が集まっているらしい。凄いね。
バザールって街の人たちの姿に直に接することができるから楽しい。

ウズベキスタンの人たちはほとんどがイスラム教徒だというけれど、男女同権のソ連時代が長かったからか、女の人が店番してる。さすがに髪にはスカーフを巻いてる人が多いけど、服装は足首まである長いゆったりしたワンピースで、色とかはかなり自由だ。

お店の人たちは、みんな人懐っこくて、写真撮ってもいい?と聞くと、気軽にOKしてくれる。右下の白い丸っこいのはチーズ。丸いのやら四角いのやらあって、おじさんが食ってけと1つ渡してくれました。すごい塩辛いの。左下の琥珀みたいなのは砂糖。他にも、トマトやスイカなんかはもちろん、お菓子やら、サラダやら、箒やら、色んなものが売っている。
売ってるものも興味深いけど、人々の顔も面白い。いろんな民族が入り混じってるということがよくわかる。なかには私達みたいな顔立ちなのに目が青い人なんかもいて、不思議。

お店を見ながらバザールを横切る形で歩いて1時間。じっくり見てたら1日あっても足りないんだろうなあ。こんなでっかいバザールがあるんだから、タシケントの女性は買物が楽しいだろうな。


ウズベキスタン歴史博物館
お昼を食べてから、歴史博物館へ。ウズベキスタンの歴史をここで頭に入れましょう・・・ということなのかもしれませんが、すいません、ここクーラー効かないんですか。暑いんですけど。

なんか色々興味深いものがたくさんあるんだけど、暑くて頭がぼ〜っとしてくる。ただでさえ、多くの民族や国家の名前が次から次に出てくるのに・・・とても覚えきれない。

でも、一度は整理しよう・・・。

簡単にまとめると、この地は遊牧騎馬民族と諸外国の遠征とが交差する地である。

まず、古代紀元前8世紀ころ、中央アジアは遊牧騎馬民族のスキタイが支配する。スキタイは紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャのダリウス大王の大軍をも翻弄したというけれど、現在のウズベキスタンの大部分はアケメネス朝ペルシャの支配に入るようになり、ソグディアナ州が置かれる。このころからゾロアスター教が信仰されるようになる。

その後、紀元前4世紀にはアレクサンダー大王の遠征があり、ヘレニズム文明が入る(グレコ・バクトリア)が、その後も、漢は遠征してくるは、北インドのクシャン朝やらが成立したかと思えば、大月氏やら匈奴・突厥とか、ああ世界史で覚えたなあという騎馬民族が次々と入ってくる。

7世紀ころはペルシャ系といわれるソグド人が力を持っていた。唐の都で中国人青年達をどきどきさせていたのはソグド人の踊り子達だが、ソグド人は交易で栄え、様々な王朝の支配を受けながら繁栄していた。当時、この地はソグド人の国と呼ばれている。

その後、8世紀ころから、次第にイスラム教・アラブ人が入ってくるようになる。そして、13世紀にはチンギス・ハーンにより大破壊を受け、14世紀にはティムールが起こり、「チンギスは破壊し、ティムールは建設した」といわれるようにサマルカンドの栄光が始まる。

ティムール帝国が衰退してからは、16世紀にウズベク族のブハラ・ハーン国とヒヴァ・ハーン国が生まれ、その後18世紀にはコーカンド・ハーン国が成立し、3つのハーン国の時代となるが、19世紀末からロシアが進出し、ソ連邦に併合される。


・・・・・簡単にまとめたつもりなのに、こんなに長くなった。ウズベキスタンの子供達は歴史の勉強で苦労するんだろうなあ。
ただ、博物館の展示物を見ていくと次から次に色んなものが現れるから楽しい。

左下はスキタイの金の腕輪。グリフォンが彫られている。100スム札の図柄。
右下はクシャン朝(1〜3世紀)の仏像。
他にも、ゾロアスター教の寺院の復元模型だとか、ソグド人の壁画だとか、興味深いものがたくさん。

あと、この博物館は現代の産業まで展示されているんだけど、現在、ウズベキスタンは韓国との合弁事業で自動車を生産しており、これが結構産業の要になりつつあるんだそうだ。ソ連邦時代に朝鮮族がこの地に強制移住され、今でも多くの朝鮮系の人たちが住んでいるので、その関係で韓国が進出しているらしい。韓国でいまウズベキスタンがブームというのも、そういったところと関係あるのかな?



ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場

本日最後の観光は、ちょっと悲しいナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。

なぜ悲しいかというと、ここは第二次世界大戦後、日本人捕虜が強制労働させられて作った建造物だから。この地で、強制労働中に、なんと79名の日本人が亡くなっている。戦争が終わってから、こんな遠くで強制労働をさせられて亡くなったなんて、どんなに心残りだったろう・・・。
とはいえ、この建物は美しい。

美しいだけでなく、この建物はウズベキスタン人に日本人凄い、と言わせるものにもなった。

というのは、1966年のタシケント大地震の時に、他の多くの建物が崩壊したのに、この建物はびくともしなかったのである。凄い。

建物の横には、建築の経緯をウズベキ語・日本語で書いたプレートが埋め込まれている。

このとき、ウズベキスタンで亡くなった日本人のお墓はウズベキスタンの人たちが大事に管理してくれているそうだ。

時間がなくて日本人墓地までは行けなかったのは残念だったんだけど、異国の地で異国の人たちが大事にしてくれているのってうれしい。
(帰国してから報道で、ウズベキスタンを訪問した小泉首相が日本人墓地を訪れたというのをちらりと聞いた。こういう話って、もっと大きく報道して欲しいよね。ウズベキスタンとの何よりの交流になると思うもの)




ここの観光が終わったところで、夕方4時をまわったところ、ウズベキスタン西部にあるウルゲンチに飛ぶために飛行場に向かう。
夕方6時の便は予定通りに飛び立ち、1時間40分かかるはずのところを1時間15分くらいで着いてしまった。ウルゲンチからバスで明日観光する世界遺産のヒワ(ヒヴァ)に向かう。最近道がよくなっているということで、ホテルに着いたのは夜の8時前だった。早いなあ。

ただ、ここのホテルは大笑いだった。ヒワ(ヒヴァ)は小さい街で、最近、ようやくホテルができたという話なんだけど、わたしの部屋、バスルームの扉が開かないんだもん。建て付けがダメなんだよね。一度閉めてしまうと二度と開かなくなってしまうらしい。従業員のお兄ちゃんが格闘すること10分、ようやく開いたけど、二度と締めないほうがいいみたい。トイレもシャワーもドアを開けたままですか・・・。
添乗員さん、明日、もしわたしが現れなかったらバスルームに閉じ込められているから救出に来てください。



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