4日目・アムダリヤ川越えとカラめぐり


今日はブハラへの移動日。ブハラはヒワの東約500キロにあり、間には砂漠が広がっている。
だから、ブハラへの移動だけでも大変なはずなのに、なんとそれだけではつまらないというので、アムダリヤ川を越えてヒワの北に点在するカラめぐりもしちゃうんだそうです。

しかも、添乗員さんはいうのであります。
「今日は大きなバスでは行けないところなので小さなバスで観光します。観光が終わったら大きなバスに乗り換えてブハラに移動します」

なんだ、なんだ。なんだか、よくわからないんだけど、わくわく♪


アムダリヤ川

朝の7時。ホテルをちっこいバスで出て北に向かう。飛行場のあるウルゲンチの街を抜け、さらに行った所でアムダリヤ川のほとりにでた。ホテルを出てから約1時間。

わあ。この川、大きい。

ツアーパンフレットには「アレキサンダー大王も越えたアムダリヤ川」とある。

アレキサンダー大王はあれだけ遠征を繰り返したんだから、大王が越えたという川は他にもいくつもあるだろうけれど、わざわざこう書くと言うのは、この大河に大王も苦労したということなのかな。
それとも、大王の中央アジア侵略にとって、この川を越えたというのは大きな意味があるのかな。

というのも、ウズベキスタンという国は横に長い国で完全な内陸国で国土の大半が砂漠なんだけれど、北西のカザフスタンとの国境にアラル海という巨大な湖があって、そこにそそぐのが国土の西に走るこのアムダリヤ川と東を走るシルダリヤ川。

そして、この2つの川の流域は緑の広がるオアシス地帯として古代から人々が住み着き、2つの川に挟まれた地帯は中央アジアの中心部分として栄えたというわけ。

だから、アムダリヤ川を越えたというのは、大王の中央アジア進出の象徴ともいえるのかも。



なんにせよ、アムダリヤ川というのはウズベキスタンの人にとっては凄い大事な川であるわけだ。

しかしね、ちゃんとした橋がないのよ。
なんていうのかね、船?甲板みたいのが、いくつもいくつもくっつけてあってね、そこを渡るのよ。

時には段差が30センチくらいあるのよ(そういうところには、一応板が渡してあったけど)

なんとか小さなバスは走れますが→

わたしたちはバスを降りて歩いて渡りました。
川を渡りきるまで、だいたい15分くらいかな。



聞いた話では、ちゃんとした橋がかかっているところもあるらしいんだけど、カラめぐりをするには、ここを渡らないと凄い遠回りをしないといけないんだって。まあ、面白かったからいいけど。

しかし、このアムダリヤ川、実は深刻な問題も抱えている。ソ連時代に綿花の生産量を増やすためにアムダリヤ川流域に無数の用水路が作られた。そのせいか、かっては世界4位の巨大湖(琵琶湖の1000倍の広さがあったらしい)だったアラル海がどんどん小さくなっていき、今では、海岸線が200キロも後退し、かって港町だったところも干上がって、廃船が放置された船の墓場が広がっているとか。

だったら、用水路を閉めれば・・・と思うけど、そうすると綿花の生産が急落してしまい、簡単にそうするわけにもいかないとかで・・・・・・。





カラ巡り

かって人間が大河の流れをどうしようもなかったころは、人はアムダリヤ川の流れが変わる度にそれまでの都を放棄し、新しい流れを追いかけて都を築く、ということを繰り返した。

それが、これから見るカラ・・・・都城跡。

アムダリヤ川の流域のアオシスには、古代から幾つもの王国が栄え、ホラズム(太陽の国)と称されたとのことだけど、その都がどこにあるのかは長い間、分からなかったらしい。

それがソ連時代の発掘で、なんと1000もの都城(カラ)跡が発見され、人々が流れを追いかけて移動していたことが分かったというわけ。

アムダリヤ川を越えて、更にバスが乾いた土地を1時間くらい走ったころ、窓から遠くに遺跡らしきものが見えてきた。
キジル・カラと言われる紀元前2世紀ころの都城跡らしい。バスを停めてもらって写真撮影。



トプラク・カラ


キジル・カラが見えてから、バスで15分ほど、また遠くに遺跡らしきものが見えてきた。

これがトプラク・カラ。
凄い逆光だけど・・
かなり大きいみたい。

近づくと全景が撮れないだろうということで、手前で一度バスを停めてもらって写真撮影。


このトプラク・カラというのは紀元前1世紀から紀元後5世紀にかけての古代ホラズム王国の都市遺跡。




バスは遺跡のふもとで停まり、歩いて遺跡を登っていく。

遺跡は全て日干し煉瓦で造られているとのことで、泥の山みたいになってる。

だけど、登り始めてすぐに、こんな城壁が出現。

私達の前に観光している数人のグループがいて、人影が小さく写っているんだけど、わかってもらえるかな、かなり大きな城壁なんですよ。

多少、復元とかもしてるんだろうけど、なかなかどうして立派な遺跡じゃないですか。



この遺跡、ソ連時代に発掘されたとのことで、古代ホラズム語が書かれた羊皮紙や王の横顔が描かれた貨幣・シルクなども発見されている(今でもエルミタージュにあるらしい)。


更に遺跡を進むと小高いところから全景を見下ろすことができる。

右下の写真から分かるように、かなり古代の街並みが残っている。
左下の写真奥の小高い部分が古代の要塞跡。2階建てになっていたらしい。つり橋があって、夜になると外敵に備えてしまっちゃったんだって。
左下の写真の手前にある壁に丸い模様のあるのが古代のゾロアスター寺院跡。ここからはゾロアスター教のアフラ・マズダ、アーリマン、ミトラ、アヒタナ(水の神)といった4神の像が発見されているんだそうだ。

この遺跡、中は歩き放題、登り放題。迷路みたいで楽しい。地元の子供達も走り回っていて、足場の悪いところは手を貸してくれたり、面白いところを案内してくれたりする。
高いところに登ると、さっき見たキジル・カラやこれから行くアヤズ・カラも見える。

面白いと言えば、この子達には案内してもらったときにはチップを要求されたんだけど、わたしたちのバスが出発するときエンジンかからなくなって押したときには、なぜか無料で協力してくれたのよ。動き出したら大喜びだったし(笑)。娯楽がないのかなあ。




アヤズ・カラ

アヤズ・カラまでは、バスでちょっとあった。

アヤズ・カラは3つの部分からなっている。
紀元前4世紀から紀元後3世紀にかけての王宮、紀元前4世紀から紀元後7世紀にかけての城塞、そして農民達の住居跡。

農民達の住居跡は、もうほとんど分からなくなっているけれど、城壁と王宮跡は見事だ。

2つの山が並んでいて、手前の頂上には王宮が、後ろの大きな山には巨大な城壁が築かれている。

う〜〜ん
実に、かっこいい!


が、しかし、この後ろの山に写真の左端あたりから登ったんですがね、これが地獄の行軍だった。
砂が積もっていて、まるで砂山を登るようで、えらい大変。ばてた〜。



でも、必死に登ると、手前の山の上に建っていた王宮跡をしっかりと見下ろせます(左下)。
かなり保存状態良さそう。あっちも行きたかったな。

登った山の頂上は、ぐるりと城壁が残っているんだけど、内部にはほとんど何も残ってない(右下)。ただ、かなり広いので、昔はかなりの人たちが暮らしてたんじゃないのかなあ。



ここで、本日の観光は終了。ちょうどお昼。


これから食事をとって、あとはひたすらブハラへの移動となる。
食事をするのは、遺跡から見下ろせるところにあるレストラン・・・・
ユルタが並ぶレストランなんだけど宿泊もできるらしい。

遺跡の反対側にアヤズ湖というキレイな湖も見える。

ここは将来、観光の穴場になるんじゃないか?という予感


おまけ写真

レストランにいたらくださん(左下)
ユルタ(天幕)の中でレストランのお姉さんを記念撮影(右下)



この後、ユルタの中で大宴会になり、ブハラに着いたのが9時になったのは内緒だ

バスの中で爆睡していたのも内緒だ
ブハラまで、ひたすら砂漠だった・・・ということはうっすら覚えてる・・・かな?
あ、途中でアムダリヤ川のダムも見たような・・・?


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