4日目


今日は敦煌からちょっと離れたところにある安西東千仏洞と楡林窟を見学することになっている。楡林窟については最近は結構訪れるツアーも多いと聞くけど、安西東千仏洞については、地球の歩き方にも載ってないし、ほとんど情報が集まらなかったので楽しみ。莫高窟の東にあるから東千仏洞というらしいけど、はてさて、どういうところなのか。

8時半にホテルをでて間もなくバスは敦煌の町を離れ、風景も殺風景なものとなってくる。

ところどころ、オアシスが目に付くけれど、基本的には砂漠というか土漠というか不毛な大地が続くだけ。

そういえば、ゴビ砂漠の「ゴビ」というのはモンゴル語で「不毛の地」という意味だそうだ。

時々、左の写真のような狼煙台が目に付く。なんと漢の時代・・・2000年前のものだそうだ。乾燥しているから壊れないで残ってるんですなあ。
ちなみに「のろし」を「狼煙」と書くのは昔は狼の糞を使ったからなんだって。





いい加減、見ていて眠くなる風景なんだけど、ふと黒い点々が動いてるのに気が付いた。

らくださんの放牧らしい。


近くの農家が放牧してるんでしょうとのこと

もうちょっと近くに来てくれればいいんだけどなあ・・・どうやら、らくださんにはそんなサービス精神はないらしい。

らくださんが見えなくなったら、また土漠が延々と続く。




う〜。いくらわたしでも、この景色は飽きるぜ・・・
うとうと・・としかけたとき、急にバスが止まった。なんだなんだ。

どうやら、道が工事中で通行止めらしい、で、土漠の中の砂利道というかなんというかを行けと言っているのである。あらあ。

運転手さんが掛け合うもどうしようもなく、バスは大きく揺れながら砂利道?の中へ。
うひゃあ、こりゃあ、揺れるわ。

こんなに揺れてちゃ、目も覚めるかと思いきや、かえって、この揺れが睡魔を誘う。

・・・・・ZZZZZ

途中、青空トイレの時間を取りつつ(笑)、バスが鎖陽城というところに付いたのは、道路工事がひびいたのか、大きく予定を遅れた12時。鎖陽城に立ち寄ったのは、目指す安西東千仏洞の鍵番の女の子がここにいるからだったんだけど、急遽、ここのレストハウス?だかなんだかでお弁当を食べることになった。




鎖陽城


鎖陽城というのは、地球の歩き方にも載っている。

地球の歩き方によれば、鎖陽城は安西の町から南東76キロのゴビ砂漠の中にある唐代のお城跡。
唐の時代の城郭構造を知るのによい遺跡なんだそうだ。

鎖陽というのは植物の名前で、昔敵が攻めてきたときに、城内に生えているこの草を食べて援軍が来るまで持ちこたえたんだそうな。

お弁当を食べてから、ちょっとぶらついて写真を撮ってみたけど、これじゃあ、なんだか分からないな。



それと、ここのレストハウス?には目指す安西東千仏洞のポスターも貼ってあった。現地ガイドさんによれば、安西東千仏洞が一般開放されたのは、つい数年前なんだそうだ。地元でもCMしてるわけですね。ポスターを見ると、なかなか面白そうだ。壁画の写真もあったので、ポスターを写真に撮ったりしてみる(笑)。




安西東千仏洞
鎖陽城を出てからバスで30分。なんか、とてつもなく荒れ果てた寂しい場所に出たと思ったら、なんとここが安西東千仏洞だって・・・。左右に断崖がそびえ、よく見ると、なんか高いところに扉のようなものが・・・・・ま、まさか、これを上るんですかい?

そうです、両方の崖に石窟が彫られています、との明るいお返事。ううう。分かりました。

なんか気が付けば、今回のツアー、2日目の鳴沙山から階段ばっかりだなあ・・・と、ぶつぶつ言いながら、まずは右上の写真の方から上っていったのであります。
しかし、ひいひい言いながら上った甲斐があったのであります。

まずは5窟。安西東千仏洞は西夏・元の時代に作られた石窟群なのだけど、この5窟には貴重な西夏文字が残っている。写真に撮れないのが残念だけど、漢字の字画を更に多くしたような文字。他にも、ここには観音の化身で全身が緑の緑度母の壁画や、麒麟に乗る毘沙門天、頭が2つの神など興味深い壁画がたくさん残っている。

うわあ。凄いじゃん。安西東千仏洞。
ここも写真撮影禁止なのが悔しい。写真OKだったら、撮りまくりだな。

しかし、お次の2窟は更に凄かった。

写真撮影禁止なので、例の鎖陽城で撮った安西東千仏洞の宣伝ポスターでご紹介。

この不思議な女性像・・・に見えるのは、救苦観音という観音様。

肌の色は変色してしまっているが、緑が美しい。

ほぼ等身大の大きな壁画で、木の下に立ち、右の手には水差しを持ち、そこから流れる水を背負われた子供がかぶっている。

服装はミニスカートにしか見えない。
どうやら、これは西夏時代の風俗らしい。
しかも、よく見ると、足には細かな模様のついたストッキングのようなものをはいている。

なんともいえず、エキゾチック。ウエスト細いし・・。



更に、この石窟の奥の左右には色も鮮やかな水月観音と三蔵一行を描いた壁画がある。
観音様がとてもきれいだ〜。

特に入口から見て左側の壁画では、猿ではなく奇妙な顔の人間として描かれている悟空が目を引く。分かりにくいかもしれないけど、右の写真の馬の右隣で合掌している白い服の人物がそれ(ポスターの写真ね)。

現地ガイドさんの話では、三蔵法師は異郷の異民族のガイドに助けられながらインドを目指したのであって、そういった異民族が悟空達のモデルだったんじゃないのか、って。なるほどね、そういう見方もあるかも。
ポスターの写真は光っちゃってて見にくいと思うけど、実物は、もっとはっきり見えるよ。暗いけど。


他にもこの石窟の入口には「明治四四年九月二七日 大日本京都 吉川小一郎」との落書きがある。これはあの大谷探検隊の一行の一人だそうだ。帰国して調べたところ、大谷探検隊では1910年(明治43年)から1914年にかけて吉川小一郎が敦煌周辺を探検している。そのときに訪れたんだろう・・・・。


ここで一度、崖を降りて、反対側の崖を上る。ふ〜ふ〜。
こちらには元の時代の天井がマンダラになっている6窟と、西夏時代の7窟を見学。7窟は西方浄土変の壁画や本尊の後ろの涅槃図が見事だ。

ということで見学したのは全部で4つの石窟だったけど(2・5・7窟は特別窟。2窟は150元、5・7窟は100元)、苦労して来た甲斐があったぜ、安西東千仏洞。こんなに見事なところが知られていないなんて不思議だ。もっと知られるべきだと思う一方、もったいないから知らせたくないような気もする。しかし、写真撮影禁止ならば、せめて絵葉書か写真集が欲しいところだけれど、そういったものが全くないのがつらいなあ。
時間がだいぶ押してるみたいだけど、今回は添乗員さんも現地ガイドさんも、じっくり見せてくれるんで助かる。鎖陽城に一度戻って鍵番の女の子を下ろしてから、お次は楡林窟だ。




楡林窟

楡林窟に付いたのは、東千仏洞を出てから1時間15分ほど経った4時ちょっと前。4時とは言っても、実際は2時くらいの太陽の位置なので、焦らないで観光できそうだ。

楡林窟は楡林河という河の両岸の断崖に掘られた石窟寺院群で、全部で42箇所ある(最近1箇所新たに発見された)。

ここの川は水量が豊かで、川のせせらぎが聞こえて気持ちがいい。

でも、ここも階段。まずは降りていって、それから上がるんであります。ひ〜。



楡林窟も写真撮影は禁止されていて、莫高窟と同じように案内のガイドさんに従って見学していく。
まずは、五代の時代の12窟、13窟。当時のこの地の有力者である曹一族が両親の供養等の目的で作ったものだ。16窟も曹一族のものなのだけれど、ここは@入口に西夏の年号である国慶5年という文字と楡林窟という文字があること、A壁画に描かれた両親の図のうち、母親がウイグル民族の姿をしていること、で有名らしい。

15窟の前室も、右は漢民族の武将の姿の増長天、左はチベットの武将の姿の多聞天となっていて、西域の色彩が非常に濃い。

他に、六道輪廻の絵がある19窟、八仙人が雲に乗るといった道教の色彩の強い天井画のある23窟など。


しかし、ここも圧巻は特別料金を払う特別窟だ。

25窟と3窟を見学したのだけれど、どちらも素晴らしかった。

25窟は奥にはチベットの服装をした菩薩の仏像が並び、壁には左右に弥勒浄土変、西方浄土変という唐代の壁画が描かれている。

弥勒浄土では年をとらず、一度種を植えれば7回収穫ができ、人は自分の寿命が尽きるときはそれを知ることができ、しかも死ぬときに苦しまない・・・そのようなテーマで描かれている人々の生活の描写が素晴らしい。

写真は楡林窟の入場券として使われている弥勒浄土変の一部。農作業のところ。


他にも、結婚式とか色んな生活の様子が巨大な壁面にいっぱい描かれていて凄い。
反対側の壁面の西方浄土変も鼓を持った踊り子やら、四弦の琵琶やら、双頭の鳥など興味深いテーマがたくさん描かれている。




3窟は入口からすぐの左右の壁にある壁画が見事だ。

西夏時代の壁画で、白象に乗った普賢菩薩と、獅子に乗る文殊菩薩が描かれていて、それぞれ背景には水墨の山水画が描かれている。

どちらも巨大な壁画で壁面いっぱいに描かれていて、しかも、繊細な描写。凄いなあ。

実は、一生懸命探したんだけど、楡林窟の絵葉書や写真集は敦煌では全く売っていなかった。
莫高窟で買った写真集に楡林窟の壁画が数点だけ載っていたので、そこからご紹介。

こちらは普賢菩薩を描いたもの。
中央に白象に乗った普賢菩薩が描かれているのが分かる?
普賢菩薩の周囲には多くの侍従が描かれている。

上部の山水画には山中の寺院も描かれている。





上の写真では分からないだろうけれど、普賢菩薩が描かれている壁画のはじっこの方に菩薩を拝む三蔵一行も描かれている。

その部分が鎖陽城にあったポスターに載っていたのでUP。上の写真だと見えないような部分も、こんなにきちんと描き込まれてるんです。壁画の巨大さも分かってもらえるかな・・・。

三蔵一行が経典を手に入れて帰国する様子を描いているんだけど、注目なのは悟空。
なんでも、ここに描かれている悟空は猿として描かれた最初のものなのだそうだ。分かるかな、三蔵の後ろで合掌して上を向いているのが悟空。たしかに、顔は猿っぽい。

なんでも、わたしたちが知っている「西遊記」が成立するのは、これから300年も後のことだとか。
東千仏洞では、異形の人物として描かれた悟空が、ここで猿となり、その後、小説として成立していく・・・ということなのかな。



楡林窟の特徴としては莫高窟と比べて保存状態がいい石窟が多く、ほとんどの石窟に前室が残っている。また、宋の時代の補修も多いのだけれど、宋の時代の壁画では普賢菩薩が乗る象、文殊も札が乗る獅子がどちらも正面を向いているのが特徴。

他にも、11、7mの涅槃仏がある5窟、則天武后時代の巨大な弥勒仏がある6窟(弥勒仏の前のでっかい布袋も笑える。たぶん、布袋は弥勒の変化だったと思う)を見学して本日の観光終了。気が付けば、もう6時だ。

これから敦煌の町に戻って夕食をとるのでは遅くなりすぎてしまう・・・ということで、急遽、安西の町の小さな食堂で夕食をとることに。

これがおいしかった♪

麺に色々な料理を載せて食べるんだけど、野菜を多く使った料理が多くて、しつこくないんだよね。

写真は食堂の前で遊んでいた子供たち。
ここの食堂のお子さん達だそうです。


そして、夕食を食べて敦煌に戻る途中、急に暗くなったと思ったら・・・・・来ました、砂嵐。

全く前が見えない砂嵐で、どうなることかと思いきや、さすが運転手さんは馴れたもので車を走らせていく。


砂嵐にもかかわらず、運転に不安を感じることもなく、気が付けばまたも寝てしまった。

起きたのはホテルにつく直前。ホテル到着10時半。

今日は濃い一日だったな。なんか、よく寝てたけど(笑)。


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