5日目

昨日の砂嵐のせいで、ホテル中が砂だらけ。朝から従業員さんたちは清掃に忙しい。

それにしても早いもので、旅行5日目、敦煌に来てから、もう4日目。
今日は敦煌郊外の玉門関・陽関・西千仏洞・白馬塔を一日、観光してまわることになっている。

玉門関・陽関というのは漢の時代の関所跡。敦煌は漢の領土の西の端にあたり、関所の先は「西域」となる。西域に通じる道として「西域北道」と「西域南道」があって、西域北道にある関所が「玉門関」、西域南道にある関所が「陽関」なんだそうだ。




玉門関

ホテルを9時に出て、砂漠の中を走ること1時間半

まずは玉門関に到着

玉門関という名前は、ここから西域の玉がここから入ってきたから付けられたんだそうだ。

入口には博物館?だかお土産売り場だかの建物があり、最近作られたらしい木製の門と柵もある。

肝心の玉門関はどこかというと・・・、写真の左の方に写っている土の塊みたいなものがそれなのです。




とにかく近づいて見てみるけど、近くで見ても、こんなもん。

四角い建物でレンガでできているのはわかるけど、なんか小さいなあ。
中に入ることもできるんだけどね。
なんかなあ。

ガイドさんによると、本当にここが玉門関なのか?・・・ということについては中国内でも争いがあるらしい。

このあたりに関所があって、匈奴の侵入に備えるための兵が駐屯していたというのは間違いないらしいんだけど、玉門関の建物跡にしては、これはちょっと小さすぎるのではないか、と批判する説もあるんだそうだ。



難しい説はともかく、砂漠の中にぽつんと関所だけあるというのは納得いかない。関所というからには万里の長城がないと意味ないよねえ。砂漠の中に、ぽつんとある関所に、誰がわざわざ立ち寄って通行料を払うだろうか。長城があって、そこを通らないと通行できないから、仕方なく通らざるを得ないのが関所っていうものではないか。

で、みんなで「なんで万里の長城がないのよ、ぶ〜ぶ〜」と言っていたら、ガイドさんが「近くにあります。寄りましょう」ということになった。言ってみるものである(笑)。



ということで、バスで5分
これが漢の時代の万里の長城。

保存状態がいい部分だけ柵で囲ってあって、柵のないところは登ることもできる。

砂漠の中を、ず〜っと続いているのは、なかなか感激。
当時の国境線というわけだよね。

漢の時代の万里の長城は後の長城に比べてるともろいんだというけれど、2000年もの間、形をとどめているというのは立派。
ということで長城を見てようやく納得した我々は次の目的地へ移動するのであった。



お次は、陽関を観光することになっているんだけど、その前に陽関の近くの農家風レストランでお昼を食べることになった。

砂漠の中を延々と走ること1時間半。
緑のオアシスが見えてきた。
なんでも、ここは葡萄の産地で、農家の平均年収が10万元という豊かな地域なんだそうだ。
10万元というと150万円・・・・上海あたりはともかく、農村部では凄いことらしい。

レストランでの食事は、やはり野菜中心で、麺の上に料理を乗せて食べるという、このあたりのスタイル。
さっぱりしてて日本人の口に合う。
面白かったのは「楡」の炒め物がでたこと
味はないんだけど(笑)

写真はレストランの前の道。
道の両脇にはキレイな水が流れている。
オアシスって不思議。まわりは砂漠なのに。





陽関


さて、陽関。ガイドブックには「のろし台だけが残っている・・・」とあるが、行ってみると、なんかでっかい建物が・・・。

昔の武器とかが飾ってあって(復元?)、お城みたいのができてて、しかも、お隣には古代の兵舎とかも復元されていて、まるで「敦煌歴史村」といった雰囲気である。

むうう。

なんでも、中国では、こういうものを建てると金を中央から持って来られるというので、すぐに建てちゃうんだそうです。こういうのを・・・。利権とかも絡んでるそうで・・・。

でも、作ったのはいいけれど、利用してないっていう感じなんだよなあ。
どうせなら、匈奴襲来ショーとかやればいいのに、とか、あの兵舎のパオを宿泊施設として利用すべきだとか、日本人から一斉に声が上がるのであった。





中に入ると、張騫のかっちょいい像がある。
ガイドさん曰く、ここで見る価値のある唯一のものだそうである(笑)。

見る価値ないのに、なんでここに入ってきたかというと、実は、陽関に向かうには、この建物からのカートに乗るしかないのである。
あこぎな商売である。

で、カート乗り場に向かうのであるが、カート乗り場は復元された兵舎の入口付近にあって、そこには杯を持った王維のでっかい像なども立っている。

なぜ王維かというと、陽関といえば、王維の「君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西のかた陽関を出ずれば故人無からん」という詩で有名だからなんである。陽関を出れば、知っている人は居ないんだから、もう一杯酒を飲もうぜ、という詩であることは覚えているぜ。こういう詩がすらすらと出ると、かっこいいんだけど、既に記憶は曖昧である。中国来る前に唐詩選とか読んでおけばよかった・・。



そして、カートに乗って向かったところにあるのが、こののろし台

漢の時代のもので、残っているのはこれだけなのだけど、周囲には展望台やら、陽関の碑などが立っている。

玉門関と違って、陽関の位置については争いがないらしい。
というのも、こののろし台は小高い丘の上にあるのだけれど、中国では山の南を「陽」というとのことで、色々と資料と合致するんだそうである。

実は、ここでは馬を引いた客引きが結構、うるさい。う〜〜ん、本当に観光地観光地しているなあ。




とはいえ、ここから先はタクラマカン砂漠。荒涼とした風景は、なかなかのもの。

車がある現代でさえ、砂漠を通るというのは不安なものだ。古代の人たちにとっては、ここは世界の果てみたいなものでもあったんだろうなあ。

ガイドさんの話では、ここ陽関からは晴れていればキレン山脈がよく見えるんだそうだ。
GWのころは黄砂の影響でうす曇のような天気になってしまうので、景色としてはいまいちらしい。
夏が一番景色はきれいなんだって。とてつもなく暑いらしいけど。




西千仏洞

陽関を出て、敦煌市街に戻る途中に西千仏洞はある。莫高窟の西にあるから西千仏洞といい、かっては陽関を越えて往来した人たちの信仰の場だったらしいが、正直、かなり破損が進んでいる。

全部で19の窟があるとのことだけれど、私達は、3・4・5・6・7・9窟を見学した。
3・4窟などは後の時代の補修(というか、わたしは破壊だと思ったぞ)で大きく損なわれている。ただ前室左側の菩薩は美人だったけど。6窟は右側の飛天が美しいけれど、左側は未完成というか、あまりに右と技術が違いすぎて、ちょっと不思議。
7窟は西魏の時代に作られ、その後何回も補修されたとのことで、弟子達が外国の服を着ている西夏時代の涅槃図や、唐の時代の説法図が見事。下の写真は入場券として使われている7窟の説法図。

正直なところ、莫高窟とは比較にならないし、東千仏洞・楡林窟と比較しても、内容的には数段落ちる。ただ、敦煌の街から近いし、観光客も少なくてひなびた雰囲気なので、陽関観光の帰りとかに立ち寄るにはいいかもしれない。




白馬塔

本日最後の観光は、敦煌の街に近いところにある白馬塔。

4世紀の高僧鳩摩羅什(クマラジーヴァ)が経典を白馬に積んで敦煌まで来たとき、白馬が死んでしまい、ここに葬られた。
高僧の愛馬で経典を運んだ偉い馬ということなのだろうか、その後も何回も改修されながら、現在も、このように立派に保存されている。

まあ、実際には、この塔が建っているだけなのだけれど・・・。

ただ、鳩摩羅什というのは、法華経を始めとする多くの経典を漢文に翻訳した偉いお坊さんで、中国はもとより日本の仏教に大きな影響を与えた人である。
NHKのシルクロードで知ったのだけれど、父がインドの貴族、母が亀慈の王族で、幼いころに出家したものの、亀慈が後涼に攻略された際、強制的に妻帯させられたという悲劇の人でもあるらしい。



ただ、難しいことは置いておいても、この塔の入口にある鳩摩羅什と白馬の絵物語は結構分かりやすい。あと、ここの入口にはお土産屋さんが並んでいるのだけれど、結構、安かった(笑)。




ということで、敦煌4日間の観光終了。さすがに4日間あると、じっくりと見られますね。
宿も連泊だったから、疲れなかったし、こういうゆっくりした旅もたまにはいいのかな。

敦煌最後の夕食は、ホテルのそばのレストランで火鍋になりました♪

お鍋に餃子とかを入れて食べるんですよ。

お鍋は2つに分かれていて、赤いほうは激辛です。

本来は四川省あたりの料理で、辛さで有名なんだけど、ここのはちょっと優しいお味になっているとのこと。

いやあ、おいしかったです。

敦煌の料理は基本的に野菜が多くて、薄味で食べやすかったんだけど、やっぱり、餃子はおいしい(笑)。

ああ、敦煌の思い出が火鍋の思い出になってしまう・・・・というくらいおいしかった。



明日は北京に戻ります。


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