6日目・シャフリサブス

今日はブハラを出て、ティムールの生まれ故郷シャフリサブスという町を観光してからサマルカンドに入る。ブハラからサマルカンドは直線距離では270キロくらいなんだけど、シャフリサブスはブハラとサマルカンドを結ぶ道からは外れたところにあるので、ちょっと遠回りになる。

ブハラのホテルを朝の8時に出て(朝の気温は22度。かなり涼しい)、シャフリサブスの町にバスがついたのはお昼ころだった。シャフリサブスの古名は「ケシュ」、「緑の町」と言われるというけれど、確かに周囲も町も緑が多い。ティムールの生まれ故郷と言うことで、最近、世界遺産には登録されたけど、小さい町だよ、とのこと。


アク・サライ

まずは、ティムールの夏の宮殿「アク・サライ」へ。ティムールが故郷に建てた夏の宮殿はティムールが建てた建造物の中でも最も大きかったのではないかと言われているけれど、実は入口付近しか残っていない。今は大きな公園になっていて、ティムール像が飾られているんだけど・・・・いやあ、凄い人出!

この人達、新婚カップルとその親族・友人達。何組のカップルがいるだろう・・・始めはウエディングドレスを着ている新婦さんを数えてたんだけど、いやあ、数え切れないくらい次から次にカップルが現れる。みんなティムール像のところで記念写真を撮るために来ているんだって。ティムール、凄い人気だ。

現地ガイドさんの語るティムールの人生

「ケシュ(シャフリサブス)の近くで1336年に生まれた」

「トルコ化してイスラム化したモンゴル族」・・・・ここらへんの人種はよくわかんないね(汗)。

「5代前はチャガタイ・ハンとともに移住したモンゴル族でチャガタイ・ハンの側近・有力者だった。でも、ティムールのころは3・4人の従者しかいないほど没落していた」
・・・つまり没落貴族ね。なんかドラマの主人公になりそうね。

「当初は、ティムールは盗賊団の首領で略奪を繰り返していたけれど、分裂していたチャガタイ・ハン国を統一した」
・・・盗賊団の首領ですか!!ちょっとびっくり(イメージ違う)。
始めは盗賊団の首領として暴れまくっていたらしいけれど、人徳があるというか人望があるというか、どんどん彼に仕える人が多くなっていったんだって。

「1363年にイランで落馬して手足に大きな傷を負ったが、盗賊時代からの部下が彼を支えた」
27歳のときに大怪我をしたわけだ。
ティムールは「びっこのティムール」を言われていて、足に大怪我をしていたと伝えられているけれど、これはソ連時代にティムールの墓の調査で事実と確認されたとか。

現地ガイドさんの話では、当時、それだけの大怪我をするということは今とは比べ物にならないほどの大きなハンディキャップだけれど、盗賊時代からの部下は彼を見捨てなかったんだ、とのことでした。単なる家臣団じゃなく、若いころから一緒に戦ってきた部下・仲間だから、信頼と言うか、絆が違うんだって。これもドラマになりそう〜〜。。

ティムールは1370年にサマルカンドに政権を樹立。大怪我から7年目。以後、1405年に中国遠征の途中で死ぬまで遠征を繰り返し、大帝国を築いた。
(最後は酒の飲みすぎで病死したらしい)

現地ガイドさんが強調するのは「ティムールが偉大だっただけでなく、彼は子孫にも凄い人が多い」ということ。インドのムガール帝国を築いたのも彼の子孫なんだよね。

ちなみに、ウズベキスタンではティムール像をいくつか見たけれど、みんな同じような顔立ち。この顔立ちはソ連時代に学者がティムールの頭蓋骨から復元したものらしい。結構、かっこいいです。しぶくて。



宮殿の建物として残っているのは上の写真でティムール像の後ろに見えるものだけ。


これは宮殿の入口だったということだけど、近づくと巨大さに圧倒される。

今残っている部分の高さだけで38m、かっては50mもあり、入口は3つのアーチになっていたらしい。

逆光だけど、タイルが見事だ。

この入口の左右にはアラビア文字が飾られているんだけど、本来は「スルタンはアラーの影である」と書くべきところを、片方が「スルタンは影である」になっちゃって、建築家はアーチの上から投げ落とされたそうです。

ウズベキスタンの処刑方法に多いね、これ・・・。




このアーチ門は登ることができて、上からの眺めが右→

はるかかなたにティムール像が小さく見える(写真左)。

なんでも、本来はあのティムール像のところまで宮殿だったらしい。だとしたら、とんでもない巨大さだ。

アク・サライというのは「白い宮殿」「高貴な宮殿」という意味らしい。

宮殿は床にはタイルが敷かれ(一部が発掘されていて見学できる)、屋上にはなんとプールがあったとか。

山から水を引いたというけれど、凄いねえ。



そんなに凄い宮殿がなんで全く残っていないかと言うと、なんでもオトコの嫉妬らしい。
ティムール帝国が衰退してから、ここらへんはブハラ・ハーン国に征服されちゃうんだけど、ブハラ・ハーン国の王様が宮殿の余りの素晴らしさに嫉妬にかられて破壊しちゃったんだそうです。嫉妬にかられて・・・って、もったいない。



同じ道を戻ったんだけど、ティムール像の前での新郎新婦の写真撮影は、あいかわらず続いている。ちょっと見ただけで、3カップルくらいが同時に写真撮影しているんだけど、それが次から次に入れ替わるんだから・・・・いったい今日一日でいくつのカップルが結婚式をするんだろう。





ダール・ティワラット建築群

宮殿跡からバスでちょっと移動すると、すぐにダール・ティワラット建築群に着く。

入口を入ると大きなスズカケの木があった。
1370年に植えられた木なんだそうだ(ティムールがサマルカンドで政権を樹立した年だね、日本でいえば室町時代)

で、モスクがある。
ここは地元の人たちが礼拝に来るモスク。

おじいちゃんたちが集まってきている。

頼んだら、このおじいちゃんがスズカケの木の下で写真を撮らせてくれました。


ウズベキスタンのおじいちゃんたち、いい顔をした人たちが多い。このおじいちゃんもステキでしょう。

ウズベキスタンでは、お年寄りが凄い大事にされて、尊敬されているみたい。





モスクから抜けていくと、こんな感じ。

写っているのはティムールの長男ジャハンギール廟。

本来の姿がよくわからないくらいになっているけれど、かっては巨大な廟だったらしい。

で、ここが建築群と言われるのは、たくさんの廟・建築物が集まっていたから。


たとえば、今はもう壁も屋根もなくなってしまってるんだけど、ティムールの次男ウマル・シェイフの廟も残っている。




本当は、ティムール自身も、ここで子供達と一緒に葬られたかったらしい。

1968年に、ここで遊んでいた女の子が穴に落ちて、そこからティムールの名前を書いた棺が出てきたんで大騒ぎになった。
というのも、ティムールはサマルカンドで葬られて、しかも墓の中の遺骨も確認されているわけだけど(顔まで復元されてるし)、新しいティムールの棺が出て来ちゃったんで、どうなってるのよ、どれが本当なのよ、ということになったらしい。
実際には、ここの棺には誰も入っていなくて、結局はティムールが自分のために用意しておいたんだけど、サマルカンドで葬られたんで使われなかったお墓・・・という決着がついたということなんだけど。

ティムールが用意していたお墓は中に入って見学できるけど、地下は結構、蒸し暑い。





ドルッティロヴァット建築群


お次のドルッテイロヴァット建築群というのは、ダール・ティワット建築群からもよく見えるところにある。

歩いて移動。

青いドームが綺麗な建物が集まってるな。

これはティムールの孫ウルグベクによって建てられたココ・グンバス・モスクと、それに向かい合う2つの廟(ウルグベクが子孫のために作った廟とティムールの先生の廟)。

写真中央の大きなドームがモスクで、手前の2つのドームが並んでいるのが廟。



まずは、ココ・グンバス・モスク。

ティムールの孫であるウルグベクによって15世紀に建てられたモスク。

左下は、モスクを正面から見たところ。遠くから見ると青いドームが綺麗だったんだけど、近くからだとドームが隠れちゃうね。残念。

右下は、モスク内部のフレスコ画の装飾。ここの壁面はタイルじゃなくフレスコ画で描かれている。修復だと言うけれど、品があって綺麗。
このモスクで面白かったのは、ドームが2重になっていて、声の反響が凄いこと。ウルグベクは大学者だったというけど、建築も凄いのかな。



お次はお向かいの廟に。

ウルグベクの子孫の廟には4つの石の棺が置かれていて、そのうちの1つは表面に窪みができている。なんでも、病気が治るとかで、みんなが触っているらしい。

ティムールの先生の廟にはティムールの先生であったシャムスッディン・クラルとティムールの父が葬られている。

何回も壊され、修復を繰り返したということで、実際のオリジナルは置かれている石棺のごく一部。色が変わっているところだけ。





ということで、シャフリサブスの観光は終了。遅い昼食をレストラン(入口の葡萄棚がステキ)で取ってから、3時15分にサマルカンドに向けて出発。


晴れていれば天山山脈の西端ザラフシャン山脈がよく見えるということだけど、残念ながら、霞んでいてうっすらとしか見えない。

サマルカンドは高原地帯にあるということで、峠を越えていく道もあるとのことだけど、小さい車でないと通れないというので、私たちのバスは迂回しながらサマルカンドを目指す。

途中のトイレ休憩のときの風景

大地が乾いているように見えるけれど、春には緑に染まるのだそうだ。

子供達がロバに乗って牛を追っていた。




サマルカンドのホテルに着いたのは、夕方の5時45分。
いよいよ青のサマルカンド。


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