テオティワカン


テオティワカンは紀元前200年ころから紀元後650年ころまで栄えた中米最大の都市遺跡である。650年ころに大火災があり、その後、急速に衰退したといわれている。逆からいうなら、日本の大化の改新(645)のころまでに、これだけの大遺跡が作られていたことになる。
黒曜石を中心とした交易で栄えた商業都市であるとともに、宗教的都市としても栄えた。
最盛期の人口は20万人ともいわれ、これは当時の世界最大級の規模を誇る。

テオティワカンはティカルをはじめとする多くのマヤの都市と交易関係にあり、マヤ文明に大きな影響を及ぼしていた(マヤを支配していたとの説もある)。それなのに、テオティワカンに住んでいた人々については、何語を話していたのかということさえ、未だにわからないらしい。

「テオティワカン」というのは、13〜14世紀に廃墟になったこの地を訪れたアステカ人が名づけた名前で「神々の都」という意味。太陽のピラミッド・月のピラミッド・死者の大通りという名称も彼らがつけたものである。



                                          太陽のピラミッド

テオティワカンで最大の建造物なのが、この太陽のピラミッド。

高さは約65m。基底の一辺は約220m。

体積ではエジプトのクフ王のピラミッドをしのぐといわれている。
また、往時は、この頂上部分に神殿があったので、70mを越える高さだったと考えられている。

紀元後150年位には、だいたい、現在の形に近いものが完成していたらしい。

現在の太陽のピラミッドは、5層に復元されているが、実際には4層だったとのこと。
正面階段の復元も正確ではないらしいが、現在は、まず、最初の1層については左右二つの階段から登ることができ、以後、中央の階段を進むという形になっている。

近くに行くと、その巨大さに圧倒される。
階段の数、実に248段。
途中で何回か休むことができるのが救いだが、なんせ、ここは海抜2300mの高原地帯(ペルーのマチュピチュとあまり標高が変わらない)なので、空気は薄い。無理は禁物。

この巨大なピラミッドは、夏至の日に太陽が正面に沈むように建てられている。
とはいえ、太陽を祀ったものなのかどうかは不明だ。もちろん、太陽・暦との関係があったことは間違いないだろうが、

このピラミッドの性質をめぐっては、地下に洞窟があることから、聖なる洞窟の上に建てられたのではないかという説(中米では洞窟は地下世界の入口として神聖視されていた)や、いやいや、その洞窟は人工のものだとか、多くの説が唱えられている。



ただ、月のピラミッドの前の広場から、この太陽のピラミッドを眺めると、後方の山の稜線と太陽のピラミッドの稜線が同じことに誰もが気がつく。

このピラミッドが自然の山を模したものであることは間違いないだろう。
なんでも、この地方では雨が降るとき、この後方の山に雲がかかるのだそうだ。
そうだとすれば、雨に関係があるのだろうか。
上記した洞窟も天然のものか人工のものかはさておき、そこで宗教的行事が行われていたことは間違いないらしい。





                                         月のピラミッド

月のピラミッドは、高さ約42m、基底の長さは140mと150mと太陽のピラミッドよりは小さい。
しかし、建てられた場所が高いために、頂上は太陽のピラミッドとほぼ同じ高さになっている。

このピラミッドの背後にも山がそびえている。この山に雲がかかると雨になるそうだ。
月のピラミッドの頂上にも、かっては神殿があり、雲母で飾られていたとか。

左の写真は太陽のピラミッドの前を通る死者の大通りから写したもの。



月のピラミッド頂上から見下ろした風景。

月のピラミッドの下にはテオティワカン様式・タルー・タブレロ様式といわれる基壇が立ち並ぶ月の広場があり、そこからまっすぐに死者の大通りと呼ばれる幅40mの通りが太陽のピラミッドの前を経て、シウダデラ(城塞)と呼ばれる区域にまで約2K続いている。

本来は4Kあったらしい。テオティワカンがいかに大都市だったかをしのばせる。
月の広場においては、ティカルやモンテアルバン等周辺の都市国家から訪れた人々が祭事を行っていた。




                                     ケツァルパパロトルの宮殿


月の広場に隣接してケツァルパパロトルの宮殿がある。

この舌を噛みそうな「ケツァルパパロトル」という名前は、神話上の創造物で、「羽毛に覆われた蝶」あるいは「尊い蝶」という意味。
この建造物の柱に、ケツァルパパロトルのレリーフがいくつも彫られていることから、ケツァルパパロトルの宮殿と呼ばれているわけである。

もっとも、宮殿といっても、おそらくは神官たちが生活した場所ではないかとのこと。
この中庭に水を張って、星の観測をしたとも言われている。

ケツァルパパロトルとは、霊鳥であるケツァルと蝶を合体させたものとされているが、その具体的な意味は不明とのこと。
蝶はマヤでは戦争で死んだ戦士の魂を運ぶといわれ、後のアステカでは雨の前触れといわれたという。テオティワカンにおいては、どのような意味を持っていたのか。

左が宮殿の柱。横を向いたケツァルパパロトル(右)と正面を向いたそれ(左)
右はケツァルパパロトルの部分のUP。
黒曜石が目に埋め込まれているが、おそらくは胴の両脇の円形にも埋め込まれて、蝶の羽根を模していたのではないか。



                                          ジャガーの宮殿


ジャガーの宮殿は、ケツァルパパロトルの宮殿に隣接する建造物。

名前の由来は左の写真のような絵がいくつも描かれているから。

これは羽毛の頭飾りをつけたジャガーがほら貝を吹いて雨を呼んでいるという絵。
ジャガーはオルメカの時代から雨神と関係があったらしいが、ほら貝にも雨との関係があるらしい。
ジャガーの上の奇妙な顔については、羽毛の頭飾りだとか、ヒトデだとか、雨の神の顔だとか、色々な説があるらしい。



                                           地下神殿


ジャガーの宮殿は半分地下の神殿に続いている。

これは、建造物に埋もれていた古い神殿。

驚くほど鮮やかにオウムの絵が残っている。

このオウムの口から雨がもたらされており、やはり雨に関連する神殿だったらしい。
他にテオティワカンの花と呼ばれるレリーフや、ジャガーとほら貝を合体させたよなレリーフなど面白いものが多い。




                                           第17号基壇


左は月のピラミッドと太陽のピラミッドの間くらいにある死者の大通りに面した基壇に描かれている壁画。

ジャガーと思われる動物が描かれている、ということだが、顔が消えてしまっているのが残念。
動物の足の爪やしっぽは、はっきりと残っているのだが。

ちなみに、修復中のようだが、実は1年半前に行ったときも同じ状況で、写真を比べても違いは分からなかった(笑)。





                                       ケツァルコアトルの神殿


死者の大通りを月のピラミッドから約2K行ったところ、遺跡の南東に、スペイン人がシウダデーラ(城塞)と名づけた一画があり、そこにケツァルコアトルの神殿・ピラミッドがある。

この神殿は200年ころに完成したものの、なぜか300年ころに覆い隠されてしまっている。

これをケツァルコアトルを祭る勢力が権力闘争に敗れた結果とし、しかし、その後、再びケツァルコアトル信仰勢力が力をつけ、敵対していたテオティワカンの支配層を倒したのではないかと考える人もいる。




この神殿の基壇には、各層において、羽毛のある蛇(ケツァルコアトル)と、もう一つの眼鏡をかけたような顔の神が繰り返し飾られている。

ケツァルコアトルは花から顔を出した姿。

もう一つの眼鏡をかけたような顔については雨の神トラロックとの説が有力だが、とうもろこしの神との説もあるらしい。たしかに、とうもろこしのように見えないこともない。

結局、ピラミッドに彫られている神も正確にはわからないのが実情なのだ。謎が多いのが、また、楽しくもある。



メキシコに行って、テオティワカンを見ないとしたら、それは、あまりにもったいない。
ただ、この遺跡はとにかく大きいし、ある意味整備されすぎているので、それが物足りない印象を受ける人もいるかもしれない。

それと、2004年8月に行った時には、ケツァルコアトルの神殿は修復中で入れず、また、月のピラミッドは調査が開始されているとの理由で途中までしか登ることができなかった。

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